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八月街角 [literature]
盂蘭盆過後
街角陽光依然刺眼,不過
多了一絲絲秋意
樹陰斑駁
關於夏日的一切終將變成回憶,那是
無盡徘徊,獨一無二的夏日
單車少年
白色襯衫飛揚
顯露黝黑肌膚
卻沒有表情,不過
我知道
知道他在那假面之下
蘊藏著快中暑的如火般的慾望,那是
即將成為回憶的
鹹鹹、曡曡的夏日
擦肩的一刹那
夏日的汗香
混雜著太陽跟操場
還有一絲絲秋意
即興的風吹起
混淆你我
不知你是否也聞到你我交疊的味道
秋意是鹹鹹、曡曡的夏日
也是種汗味的廢墟
(※感謝朋友阿伯的指教)
街角陽光依然刺眼,不過
多了一絲絲秋意
樹陰斑駁
關於夏日的一切終將變成回憶,那是
無盡徘徊,獨一無二的夏日
單車少年
白色襯衫飛揚
顯露黝黑肌膚
卻沒有表情,不過
我知道
知道他在那假面之下
蘊藏著快中暑的如火般的慾望,那是
即將成為回憶的
鹹鹹、曡曡的夏日
擦肩的一刹那
夏日的汗香
混雜著太陽跟操場
還有一絲絲秋意
即興的風吹起
混淆你我
不知你是否也聞到你我交疊的味道
秋意是鹹鹹、曡曡的夏日
也是種汗味的廢墟
(※感謝朋友阿伯的指教)
夜市にて [alternative]
九月の台北の夜は
まだじんわりと暑い
寧夏夜市の愛玉は僕らの間をつるりと
冷やしていく
三十秒間だけ
仔猫というよりは赤ん坊猫の風情の君の
太い黒縁の眼鏡の先の
絶え間なく切り換わるそのフォーカスされる点
その点をつないでできるこの街の像を
やわらかく抱きしめられたら
抱きしめたのは僕ではなく
赤ん坊猫の君のほう
背伸びしたのは僕ではなく
赤ん坊猫の君のほう
熱いのは台北の空気ではなく
僕らのからだの内側のほう
いいさ
また夜市にでかけ愛玉を
つるりとやれば
それで
いい
(2011年9月の台北にて)
まだじんわりと暑い
寧夏夜市の愛玉は僕らの間をつるりと
冷やしていく
三十秒間だけ
仔猫というよりは赤ん坊猫の風情の君の
太い黒縁の眼鏡の先の
絶え間なく切り換わるそのフォーカスされる点
その点をつないでできるこの街の像を
やわらかく抱きしめられたら
抱きしめたのは僕ではなく
赤ん坊猫の君のほう
背伸びしたのは僕ではなく
赤ん坊猫の君のほう
熱いのは台北の空気ではなく
僕らのからだの内側のほう
いいさ
また夜市にでかけ愛玉を
つるりとやれば
それで
いい
(2011年9月の台北にて)
「出櫃(カミングアウト)」の作法 [alternative]
詩人のCKHはその詩の作風とは少しイメージの違う温和な人だった。グロテスクな人間の存在をえぐり出すような、猥褻さと戦闘性を兼ね備えた詩風からは距離を置く静謐な佇まい。もちろんそういう詩ばかりというわけではないのだが。いやもしかすると矛盾などなにもない、さまざまな色を持つ総体としての存在というべきだろうか。彼がかつて巻き込まれたカミングアウトにまつわる事件は、そのスキャンダラスな側面はさておき、「ゲイ」という言葉が孕むアイデンティティの政治の問題を喚起するものである。事件の顛末は、心ない人間が極道を騙り、ゲイであることを勤務先に暴露するとCKHを脅迫したというものだ。デビューした時から多くの「同志詩」を書いており、いまさら暴露するとかしないとかということに対する奇妙な違和感がCKHじしんにはあった。しかしこんなくだらない事件によって自分のアイデンティティが白日のもとにさらされることに対する怒りのほうが強かったのではないだろうか。大手メディアの取材に対し「ゲイではない」と告げたことがゲイの友人たちを落胆させたことは確かだろう。しかしそれよりもだいじなことはカミングアウトという行為は当事者が持つべき権利であり何人もそれを犯すことはできない、ということだ。芸能スキャンダル程度にしか扱わないような大手メディアに対してはカミングアウトしない権利をCKHが行使しただけの話ではないか。
─ところできみもゲイなの?
CKHが少し逡巡しながら、しかし問わなければならないタイミングで僕に問うた時、僕は一瞬どのように答えればいいか言葉に詰まってしまった。それは、メディアに対するCKHの感覚と同じではない。それとはまた別の感覚だ。ひとつは、それを言葉に出してみることの違和感と言ったらいいだろうか。「ゲイ」であることの宣言はマイノリティであることの宣言であり、意識するかしないかに拘わらず、その宣言は既に政治性と密接に関わっている。この社会が異性愛主体で構築されている以上、それと拮抗するあるいは矛盾する存在であることを認めることは政治的行為に違いない。戦略的に「ゲイ」と名乗ることによって、異性愛主義に対抗するための回路が開かれる場合もあるし、それが必要な時もあるだろう。
一方で、ゲイではない別の側面も僕にはあるのに、ゲイの宣言がそれ以外の属性を見えにくくさせてしまう、あるいは捨象してしまう恐れも感じる。言葉は制度であり、その言葉を選んだ途端、その制度にがんじがらめになってしまうという窮屈さもある。たとえば、「ゲイ」の宣言をすることで女性に恋すること、欲情することは禁止されてしまうということもあるだろう。「性」ほど奥深くわかりにくいものはない。その本人も知らない欲望が今後顕在化してくる可能性も否定できない。
たぶん、僕の逡巡、つまりCKHに問いを発せられたときの躊躇いとはそのことと分かちがたく結びついている。ある言葉を選びとった瞬間に、それ以外の言葉の可能性を捨ててしまうことへの迷い。
「出櫃(カミングアウト)」とは単に(異性愛)社会と向きあう覚悟を負わされることではない。自分のなかの暗くて深い未知とのせめぎあいのなかで、まさに自分を抉り出すような行為なのである。
【参考】陳克華「我的出櫃日(代序)」『善男子』(九歌出版、2006)
─ところできみもゲイなの?
CKHが少し逡巡しながら、しかし問わなければならないタイミングで僕に問うた時、僕は一瞬どのように答えればいいか言葉に詰まってしまった。それは、メディアに対するCKHの感覚と同じではない。それとはまた別の感覚だ。ひとつは、それを言葉に出してみることの違和感と言ったらいいだろうか。「ゲイ」であることの宣言はマイノリティであることの宣言であり、意識するかしないかに拘わらず、その宣言は既に政治性と密接に関わっている。この社会が異性愛主体で構築されている以上、それと拮抗するあるいは矛盾する存在であることを認めることは政治的行為に違いない。戦略的に「ゲイ」と名乗ることによって、異性愛主義に対抗するための回路が開かれる場合もあるし、それが必要な時もあるだろう。
一方で、ゲイではない別の側面も僕にはあるのに、ゲイの宣言がそれ以外の属性を見えにくくさせてしまう、あるいは捨象してしまう恐れも感じる。言葉は制度であり、その言葉を選んだ途端、その制度にがんじがらめになってしまうという窮屈さもある。たとえば、「ゲイ」の宣言をすることで女性に恋すること、欲情することは禁止されてしまうということもあるだろう。「性」ほど奥深くわかりにくいものはない。その本人も知らない欲望が今後顕在化してくる可能性も否定できない。
たぶん、僕の逡巡、つまりCKHに問いを発せられたときの躊躇いとはそのことと分かちがたく結びついている。ある言葉を選びとった瞬間に、それ以外の言葉の可能性を捨ててしまうことへの迷い。
「出櫃(カミングアウト)」とは単に(異性愛)社会と向きあう覚悟を負わされることではない。自分のなかの暗くて深い未知とのせめぎあいのなかで、まさに自分を抉り出すような行為なのである。
【参考】陳克華「我的出櫃日(代序)」『善男子』(九歌出版、2006)
時間 [alternative]
忠孝復興駅のエスカレーターは
ながくながく地下へとおりていく
折りたたまれた時間をひらいて
ことこととおりつづける
いちだん上のうしろから君の手は
かるく、あくまでもかるく
僕の肩から僕の声は読みとれるの?
もとは同じ正方形の折り紙
それが僕と君との百日足らず
僕は鶴を折り
君はヒコーキを折った
いまエスカレーターがひらいていくのは
折りたたまれた鶴
折りたたまれたヒコーキ
ことことと静かな機械音は
君と僕を祝福してくれているみたい
でも二人の何を祝福しているのかは
無言のまま
最初に出会ったこの地下鉄の駅で
君は曖昧な体重を僕に預けた
誰にも気づかれることなく
そしていま
同じこの地下鉄の駅で
おおげさに僕を抱きしめる
ひらいた時間の分だけ親愛の情を
こめて
ながくながく地下へとおりていく
折りたたまれた時間をひらいて
ことこととおりつづける
いちだん上のうしろから君の手は
かるく、あくまでもかるく
僕の肩から僕の声は読みとれるの?
もとは同じ正方形の折り紙
それが僕と君との百日足らず
僕は鶴を折り
君はヒコーキを折った
いまエスカレーターがひらいていくのは
折りたたまれた鶴
折りたたまれたヒコーキ
ことことと静かな機械音は
君と僕を祝福してくれているみたい
でも二人の何を祝福しているのかは
無言のまま
最初に出会ったこの地下鉄の駅で
君は曖昧な体重を僕に預けた
誰にも気づかれることなく
そしていま
同じこの地下鉄の駅で
おおげさに僕を抱きしめる
ひらいた時間の分だけ親愛の情を
こめて
2010年の終わりに [life]
今年も残すところ後数時間。年を越したら民国100年だ。辛亥革命からもう1世紀。というか百年前はまだ清朝だったんだ。
ところで中国語文化圏の年越しはもちろん旧正月、春節を祝う方が重要で賑やかではあるが、それを「過年」と言う。台湾でもそれはそうなんだけれど、新暦の大晦日、元旦にもそれなりの過ごし方があるみたい。101ビルの花火は有名だし、とくに若い世代はパーティーを開いたりしている。
それで、日本のような正月気分という感じにはいかないものの、ここ最近こういう挨拶が普通になる。
「你跨年怎麽跨?(新年はどうやって迎えるの?)」
つまり新暦の正月を迎えることを「跨年」と言って「過年」と区別しているのだ。
こういう新しいことを学ぶたびに、生活こそが学習であると嬉しくなるのである。
さて、11月から12月にかけてざっと振り返っておきたい。
11月13日はなんといっても、王盛弘との対談である。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』について語り合ったのだが、谷崎の専門家でもない僕は斜めからしか語ることが出来ない。『陰翳礼讃』のなかで谷崎は、陰翳の美としての「能楽」や、それと「歌舞伎」の美との違いなどに言及している。これに絡めて、日本演劇における「陰翳の美」について語ってみた。僕が注目したのは、昭和8年に書かれた『陰翳礼讃』が昭和50年以降文庫化され読み継がれ続けているという事実である。文庫化と同時代の70年代は、その少し前の60年代と合わせて、所謂前衛的な小劇場運動が活発化した年代である。寺山や唐や佐藤信や鈴木忠志は、それぞれのやり方で「近代」としての「新劇」を否定する。「新劇」はそもそも前近代の演劇(歌舞伎)を否定したのだから、「新劇」の否定は、「前近代」の否定の否定、つまり一回りした肯定ということだ。じじつ、小劇場運動の担い手たちは、見世物の復権、神社の小屋掛け舞台、古武道と能楽などを巧みに融合させた身体訓練法など、違うルートで同じ山頂を目指すという活動を繰り広げたのである。しかも、彼らの芝居に共通しているのは、その空間の暗さである。小さくて暗い空間は近代的な光を避けるように、しかしじゅうぶん光に対抗できるエネルギーを発しながら存在したのである。鈴木忠志について言えば、谷崎との縁浅からぬものがある。たとえば、利賀村の利賀山房は、谷崎の『陰翳礼讃』に影響を受けたと自ら語る磯崎新の設計によるものだし、鈴木は利賀山房について闇の瀰漫した空間だと認識する。また後に鈴木は『別冊谷崎潤一郎』という芝居を創り、例のテクストをコラージュする方法で谷崎作品に取り組んでもいる。「近代」に対する谷崎的な内省の視点は、地下水脈のように現在につながっているのである。
12月3日には台湾人研究者のHLと彼の車で嘉義の中正大学に遊びに行き、中正の先生方と鵞鳥の肉で酒を酌み交わした。翌日は新港と北港の媽祖廟へ行き、都会とは流れ方の違う時間を楽しんだ。二日目の夜、僕はHLと先生たちと別れ、嘉義から高雄まで行き、友人を訪ねた。久々の高雄では何をしたというのではないが、二泊させてもらって南部の空気をたくさん吸い込むことができた。
12月10日から12日は台中で友人と会い、逢甲夜市、東海書苑、国立美術館などを巡り、古本の収穫もあった。逢甲夜市の一新素食で売っている臭豆腐の味は忘れられない。たぶん今まで食べた臭豆腐で一番美味い。低温と高温、二つの鍋で丁寧に揚げるのがコツらしい。
12月28日は同業のみんちりご夫妻と一緒に北海岸は三芝へ。三芝の孔子を祀る古い廟(智成堂)と李天禄偶戯文物館を観た後、テレビでも有名なチーズケーキのお店「三芝小豬」へ。友人でもあるご主人にごちそうになって(一番好きなのは青りんごとシナモンのチーズケーキ)、さらに車で貝殻廟、十八王公廟などを案内してもらい最後は淡水駅まで送ってもらった。ただただ感謝。
昨夜(12月30日)は、気のおけない友人の研究者たちと火鍋を囲み、手作りの蓮霧酒で楽しい一夜を過ごした。飲み過ぎて体調が悪くなるまで…。
そして静かな大晦日の午後である。今夜はおそらく西門町の紅楼で友人たちとカウントダウンの花火を眺めながら年を「跨」いでいるはずである。
ところで中国語文化圏の年越しはもちろん旧正月、春節を祝う方が重要で賑やかではあるが、それを「過年」と言う。台湾でもそれはそうなんだけれど、新暦の大晦日、元旦にもそれなりの過ごし方があるみたい。101ビルの花火は有名だし、とくに若い世代はパーティーを開いたりしている。
それで、日本のような正月気分という感じにはいかないものの、ここ最近こういう挨拶が普通になる。
「你跨年怎麽跨?(新年はどうやって迎えるの?)」
つまり新暦の正月を迎えることを「跨年」と言って「過年」と区別しているのだ。
こういう新しいことを学ぶたびに、生活こそが学習であると嬉しくなるのである。
さて、11月から12月にかけてざっと振り返っておきたい。
11月13日はなんといっても、王盛弘との対談である。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』について語り合ったのだが、谷崎の専門家でもない僕は斜めからしか語ることが出来ない。『陰翳礼讃』のなかで谷崎は、陰翳の美としての「能楽」や、それと「歌舞伎」の美との違いなどに言及している。これに絡めて、日本演劇における「陰翳の美」について語ってみた。僕が注目したのは、昭和8年に書かれた『陰翳礼讃』が昭和50年以降文庫化され読み継がれ続けているという事実である。文庫化と同時代の70年代は、その少し前の60年代と合わせて、所謂前衛的な小劇場運動が活発化した年代である。寺山や唐や佐藤信や鈴木忠志は、それぞれのやり方で「近代」としての「新劇」を否定する。「新劇」はそもそも前近代の演劇(歌舞伎)を否定したのだから、「新劇」の否定は、「前近代」の否定の否定、つまり一回りした肯定ということだ。じじつ、小劇場運動の担い手たちは、見世物の復権、神社の小屋掛け舞台、古武道と能楽などを巧みに融合させた身体訓練法など、違うルートで同じ山頂を目指すという活動を繰り広げたのである。しかも、彼らの芝居に共通しているのは、その空間の暗さである。小さくて暗い空間は近代的な光を避けるように、しかしじゅうぶん光に対抗できるエネルギーを発しながら存在したのである。鈴木忠志について言えば、谷崎との縁浅からぬものがある。たとえば、利賀村の利賀山房は、谷崎の『陰翳礼讃』に影響を受けたと自ら語る磯崎新の設計によるものだし、鈴木は利賀山房について闇の瀰漫した空間だと認識する。また後に鈴木は『別冊谷崎潤一郎』という芝居を創り、例のテクストをコラージュする方法で谷崎作品に取り組んでもいる。「近代」に対する谷崎的な内省の視点は、地下水脈のように現在につながっているのである。
12月3日には台湾人研究者のHLと彼の車で嘉義の中正大学に遊びに行き、中正の先生方と鵞鳥の肉で酒を酌み交わした。翌日は新港と北港の媽祖廟へ行き、都会とは流れ方の違う時間を楽しんだ。二日目の夜、僕はHLと先生たちと別れ、嘉義から高雄まで行き、友人を訪ねた。久々の高雄では何をしたというのではないが、二泊させてもらって南部の空気をたくさん吸い込むことができた。
12月10日から12日は台中で友人と会い、逢甲夜市、東海書苑、国立美術館などを巡り、古本の収穫もあった。逢甲夜市の一新素食で売っている臭豆腐の味は忘れられない。たぶん今まで食べた臭豆腐で一番美味い。低温と高温、二つの鍋で丁寧に揚げるのがコツらしい。
12月28日は同業のみんちりご夫妻と一緒に北海岸は三芝へ。三芝の孔子を祀る古い廟(智成堂)と李天禄偶戯文物館を観た後、テレビでも有名なチーズケーキのお店「三芝小豬」へ。友人でもあるご主人にごちそうになって(一番好きなのは青りんごとシナモンのチーズケーキ)、さらに車で貝殻廟、十八王公廟などを案内してもらい最後は淡水駅まで送ってもらった。ただただ感謝。
昨夜(12月30日)は、気のおけない友人の研究者たちと火鍋を囲み、手作りの蓮霧酒で楽しい一夜を過ごした。飲み過ぎて体調が悪くなるまで…。
そして静かな大晦日の午後である。今夜はおそらく西門町の紅楼で友人たちとカウントダウンの花火を眺めながら年を「跨」いでいるはずである。
曖昧な体温 [literature]
真夜中、疲れ果てて眠りにつきかけた僕の髪を
まるで赤ん坊をなでるようになでて
すべりこんでくる君の体温
その体温はまるで可能性と不可能性の間でもがいていた
ハタチの僕の好奇心
真夜中、呉晟の詩をうたう歌声のなかに漂いながら
意識と無意識のあいだをやわらかく裂いて
すべりこんでくる君の右腕
その右腕はまるで壊れかけた一眼レフの
ファインダーの向こうのまなざし
曖昧な体温
曖昧な右腕
君の詩を醸してできた夜の香りのなかで
とけあいからみあっていく
やがて
南部の朝の光が
静かに僕らを抱きしめはじめる
そして
池に浮かぶ花のつぼみは
しなやかに充血しはじめる
曖昧と覚醒のあいだで
まるで赤ん坊をなでるようになでて
すべりこんでくる君の体温
その体温はまるで可能性と不可能性の間でもがいていた
ハタチの僕の好奇心
真夜中、呉晟の詩をうたう歌声のなかに漂いながら
意識と無意識のあいだをやわらかく裂いて
すべりこんでくる君の右腕
その右腕はまるで壊れかけた一眼レフの
ファインダーの向こうのまなざし
曖昧な体温
曖昧な右腕
君の詩を醸してできた夜の香りのなかで
とけあいからみあっていく
やがて
南部の朝の光が
静かに僕らを抱きしめはじめる
そして
池に浮かぶ花のつぼみは
しなやかに充血しはじめる
曖昧と覚醒のあいだで
同志の日 [alternative]
10月30日
この日は待ちに待った台湾プライドパレードの日。しかしここのところ風邪気味で調子が出ないし、雨模様の日が多いので、いろんな意味で心配していた。
おまけに。
この日は色々なイベントが重なってしまっている。台湾大学演劇学部のシンポジウム、プライドパレード、そしてWSHの講演の三つ。まずは午後から夕方までのパレードを優先して、シンポは午前中だけの参加(失礼)、WSHの講演は夜7:30からなので、パレード後のイベントの様子をみて移動すればよい。でも疲れそうだな…。
さて、6時半起きで中研院を出発し、朝食屋でハンバーガーとミルクティーを買って一路台湾大学へ。途中、バスに乗り換える忠孝新生駅前の公園で朝食を食べる。8時半には台大に到着したけど、いつものように行動の遅い僕は、シンポの参加申し込みをしていなかった。そのため入場はかなったけれど、論文集はもらえず。コメンテーターとして参加したLXHを通じて、主催者側になんとか余分に分けてもらって問題は解決。Q教授の『怒吼吧!中國』に関する報告を聞いてから台大を退散。それにしてもQ教授は、偉くなっても院生が研究に対するような情熱を失わない。心から敬服する。しかも性的マイノリティにもすごく理解がある。僕が先生に「台湾大のシンポとLGBTのパレードが同じ日なんですよお」と困ったように話したら「オレの話を聞いてから行けばいい。間に合うだろ?論文集をもらえば大丈夫!」と笑う。
ゲイやレズビアンの友人たちとの待ち合わせは、パレード出発会場のそばの国家図書館前。雨が時折降ったり止んだりを繰り返す嫌な天気だったが、スタート地点の凱達格蘭大道は徐々に熱気を帯びてくる。今年は選挙を控えていたこともありテーマは「OUT & VOTE 投同志政策一票」。同志政策には無関心であった台北市長候補者が直前にパレード参加を表明するなど、選挙運動に利用されるほど台湾の性的マイノリティのコミュニティは無視できない規模と厚みを備えていると言えそうだ。
待ちくたびれた2時頃にようやくパレード開始、虹のひとつひとつの色にテーマをもたせ、そのグループごとに発進。僕はもう何色でもいい、とにかく「水男孩(water boys)」のいる色に合流して(笑)、二二八平和公園を左手に眺めつつ公園路を歩いていく。可愛らしく、かっこよくもあるたくさんの人々を目の前にして、そうか、パレードとは単に政治的なスローガンを叫ぶためだけのものではないな、このお祭りをみんなで楽しみ、そしてあわよくば「目の保養」もできるんだな、と僕は思った。そう、そういう不埒さは実に人間らしい、僕らは生身の人間なのだ。
その後、公園北側の襄陽路を西へ進み、衡陽路を歩いて西門町へ。このあたりで既にかなり疲れてしまった僕ら中年隊は、路地裏のお店で人形焼を買って食べる。この人形焼、男性器の形をしているのが売りで、中にソーセージが入っているバージョンもあって御愛嬌。女の子たちも買って美味しそうに食べていた。
一休みしてまた隊伍に戻り、ちょうど歩いてきた欧米系のドラアグクイーンのオネエさんたちとうきうきしながら行進。写真を要求されるたびに「可以、没関係(イイワヨ、キニシナイデ)」と中国語で答えているのがいかにも楽しく、誇らしい。隊伍は暮れなずむ台北駅の前を、バスを乗り降りする人々を掻き分けるように進み、また公園路を通って、ゴールの出発会場へと帰ってきた。
そこからまた特設ステージでのパフォーマンス、様々な性的マイノリティの人々、とりわけ障害をもつ人々、そして今度の地方選に出馬する若きLGBTの候補者たちが登壇し、喝采を浴びる。
そしてオオトリの張恵妹こと阿密特の登場で、会場はさらに熱を帯びる。LGBTにフレンドリーなことで知られる阿密特は、歌でもそのことを表明する。たとえばそれは「彩虹」である。
阿密特は僕らに声を合わせるように、と次のように叫んだ。
「我們是同志!我們很驕傲!(わたしたちは“同志”だ! わたしたちは誇らしい!)」
同志の“同”は同性愛を示してはいるが、ここでの“同志”は、社会運動体としてのLGBT全体を緩やかに連帯する言葉として機能しているのだろう。孫文のパロディから生まれたとされるこの半ば諧謔に満ちた言葉は、いままさに力強さを備えたしなやかな言葉として生まれ変わったのである。日本に、それにふさわしい訳語がないのが口惜しいと思うのは、僕ばかりではないだろう。
夜、WSHの講演が無事に終わって、スタッフと共に火鍋を食べに行った。CP書店の担当者はふたりともゲイで、それぞれパートナーも一緒に食事に参加してくれた。僕を含めシングルのゲイも一緒に、なごやかに宴は進む。この自然な安らぎはいったいどういうことだろう。もちろん全員ゲイだということもあるけれど、女の子が一緒にいてもべつにぎこちない感じはしないだろう、そういう自然さである。
異性愛者と非異性愛者の垣根がない、あるいは低いという環境が、全てではないにしても台湾には確実にある。そしてそういう環境にいられる自分がとにかく誇らしく感じられるのである。
この日は待ちに待った台湾プライドパレードの日。しかしここのところ風邪気味で調子が出ないし、雨模様の日が多いので、いろんな意味で心配していた。
おまけに。
この日は色々なイベントが重なってしまっている。台湾大学演劇学部のシンポジウム、プライドパレード、そしてWSHの講演の三つ。まずは午後から夕方までのパレードを優先して、シンポは午前中だけの参加(失礼)、WSHの講演は夜7:30からなので、パレード後のイベントの様子をみて移動すればよい。でも疲れそうだな…。
さて、6時半起きで中研院を出発し、朝食屋でハンバーガーとミルクティーを買って一路台湾大学へ。途中、バスに乗り換える忠孝新生駅前の公園で朝食を食べる。8時半には台大に到着したけど、いつものように行動の遅い僕は、シンポの参加申し込みをしていなかった。そのため入場はかなったけれど、論文集はもらえず。コメンテーターとして参加したLXHを通じて、主催者側になんとか余分に分けてもらって問題は解決。Q教授の『怒吼吧!中國』に関する報告を聞いてから台大を退散。それにしてもQ教授は、偉くなっても院生が研究に対するような情熱を失わない。心から敬服する。しかも性的マイノリティにもすごく理解がある。僕が先生に「台湾大のシンポとLGBTのパレードが同じ日なんですよお」と困ったように話したら「オレの話を聞いてから行けばいい。間に合うだろ?論文集をもらえば大丈夫!」と笑う。
ゲイやレズビアンの友人たちとの待ち合わせは、パレード出発会場のそばの国家図書館前。雨が時折降ったり止んだりを繰り返す嫌な天気だったが、スタート地点の凱達格蘭大道は徐々に熱気を帯びてくる。今年は選挙を控えていたこともありテーマは「OUT & VOTE 投同志政策一票」。同志政策には無関心であった台北市長候補者が直前にパレード参加を表明するなど、選挙運動に利用されるほど台湾の性的マイノリティのコミュニティは無視できない規模と厚みを備えていると言えそうだ。
待ちくたびれた2時頃にようやくパレード開始、虹のひとつひとつの色にテーマをもたせ、そのグループごとに発進。僕はもう何色でもいい、とにかく「水男孩(water boys)」のいる色に合流して(笑)、二二八平和公園を左手に眺めつつ公園路を歩いていく。可愛らしく、かっこよくもあるたくさんの人々を目の前にして、そうか、パレードとは単に政治的なスローガンを叫ぶためだけのものではないな、このお祭りをみんなで楽しみ、そしてあわよくば「目の保養」もできるんだな、と僕は思った。そう、そういう不埒さは実に人間らしい、僕らは生身の人間なのだ。
その後、公園北側の襄陽路を西へ進み、衡陽路を歩いて西門町へ。このあたりで既にかなり疲れてしまった僕ら中年隊は、路地裏のお店で人形焼を買って食べる。この人形焼、男性器の形をしているのが売りで、中にソーセージが入っているバージョンもあって御愛嬌。女の子たちも買って美味しそうに食べていた。
一休みしてまた隊伍に戻り、ちょうど歩いてきた欧米系のドラアグクイーンのオネエさんたちとうきうきしながら行進。写真を要求されるたびに「可以、没関係(イイワヨ、キニシナイデ)」と中国語で答えているのがいかにも楽しく、誇らしい。隊伍は暮れなずむ台北駅の前を、バスを乗り降りする人々を掻き分けるように進み、また公園路を通って、ゴールの出発会場へと帰ってきた。
そこからまた特設ステージでのパフォーマンス、様々な性的マイノリティの人々、とりわけ障害をもつ人々、そして今度の地方選に出馬する若きLGBTの候補者たちが登壇し、喝采を浴びる。
そしてオオトリの張恵妹こと阿密特の登場で、会場はさらに熱を帯びる。LGBTにフレンドリーなことで知られる阿密特は、歌でもそのことを表明する。たとえばそれは「彩虹」である。
阿密特は僕らに声を合わせるように、と次のように叫んだ。
「我們是同志!我們很驕傲!(わたしたちは“同志”だ! わたしたちは誇らしい!)」
同志の“同”は同性愛を示してはいるが、ここでの“同志”は、社会運動体としてのLGBT全体を緩やかに連帯する言葉として機能しているのだろう。孫文のパロディから生まれたとされるこの半ば諧謔に満ちた言葉は、いままさに力強さを備えたしなやかな言葉として生まれ変わったのである。日本に、それにふさわしい訳語がないのが口惜しいと思うのは、僕ばかりではないだろう。
夜、WSHの講演が無事に終わって、スタッフと共に火鍋を食べに行った。CP書店の担当者はふたりともゲイで、それぞれパートナーも一緒に食事に参加してくれた。僕を含めシングルのゲイも一緒に、なごやかに宴は進む。この自然な安らぎはいったいどういうことだろう。もちろん全員ゲイだということもあるけれど、女の子が一緒にいてもべつにぎこちない感じはしないだろう、そういう自然さである。
異性愛者と非異性愛者の垣根がない、あるいは低いという環境が、全てではないにしても台湾には確実にある。そしてそういう環境にいられる自分がとにかく誇らしく感じられるのである。
台北観劇指南(基礎編) [theatre]
台湾に来ることの楽しみの一つ(といっても大きな部分を占めるのは間違いない)が、芝居を観ることだった。ちょうど滞在五か月が過ぎたところだが、数えてみたら今のところ観た舞台は44ステージにのぼる。7-8月は何かと忙しかったので数をこなせなかったが、4-6月は毎月10ステージ以上を観ている。上海に滞在するときには研究対象の伝統劇は欠かさずに観ようと努力しても、他の芝居にまで目配りする余裕は正直ない。でも余裕のある台湾滞在では、現代劇、ミュージカル、ダンス、学生演劇、なんでもござれで観まくっている。だからもちろん、芝居を観るためだけに高鉄に乗って高雄まで行き、とんでもない芝居に落胆するなんていうことにもなった。編集者で芝居好きのYZにその話をしたら、「なんであんな劇団の芝居なんて観に行くんだ?」と笑われたが、小説は読んでみるまではその面白さが分からない、芝居だって観てみなければ面白いかどうかはわからないではないか。
さて、芝居を観るために前もってしていることを記しておこう。つまりどうやって情報を仕入れるか、ということなんだけど。
①『月節目簡介 Monthly Program』
まず劇場はもちろん、捷運(メトロ)の駅や書店などに置いてある国立中正文化中心(以下、文化センター)が発行している月刊フリーペーパー『月節目簡介 Monthly Program』を手に入れる。ここには文化センターが運営する国家戯劇院、国家音楽庁のプログラムが掲載されている。同時にこの文化センターが手掛ける「ぴあ」のようなチケット販売で扱う演目についても細かく情報が載っているのがポイントだ。このチケットサービスを「両廳院售票NTCH Ticketing Service」という。このチケットサービスを経由して購入できるプログラムはかなりの数にのぼるので、時間がなければこのフリーペーパーだけを頼りに観劇計画を立てても相当面白いと思う。網羅しているのは、音楽、演劇、舞踊、親子(子供向けのプログラム)、映画、などである(ちなみに映画についてはかなり少ない)。
●Web→http://www.artsticket.com.tw/CKSCC2005/Home/Home00/index.aspx
②『文化快逓 CULTURE EXPRESS』
これも月刊のフリーペーパーで、別名を「台北市芸文資訊総覧」といい台北市文化局が発行している。これも①と同じく方々に置いてありとても便利である。これのいいところは①のチケットサービスで扱っていないプログラムまで網羅していること、「専題特区」としてその月の注目すべきイベントを詳しく紹介していること、美術展の情報があること、台北市内のイベントだけでなく、近隣のイベントも多少扱っていることなどである。ただしとりわけ舞台に関する紹介は①に及ばないところがあり、やはり②だけを観ていては物足りない。
●Web→http://express.culture.gov.tw/home.php
とりあえずこの二つを観ておけば大丈夫だが、「両廳院售票」で扱っていないチケットは、直接劇団に問い合わせるか、あるいは「年代售票 ERA TICKET」で扱っている可能性があるので確かめなければならない。「年代售票」がいいのは、各コンビニエンスストアでチケット購入ができることである。ただし「年代售票」が扱う演劇の類はあまり多くはない。「両廳院售票」はネット上でも購入できるが、会員登録やネット決済が条件なのでやや面倒だろう。ちなみに僕自身は、「両廳院售票」のネットワークである誠品書店で購入している。
と、ここまで書いて、こういうことは某研究会の会報に書けばよかったかな、とちょっと後悔。ま、いいか。
さて、芝居を観るために前もってしていることを記しておこう。つまりどうやって情報を仕入れるか、ということなんだけど。
①『月節目簡介 Monthly Program』
まず劇場はもちろん、捷運(メトロ)の駅や書店などに置いてある国立中正文化中心(以下、文化センター)が発行している月刊フリーペーパー『月節目簡介 Monthly Program』を手に入れる。ここには文化センターが運営する国家戯劇院、国家音楽庁のプログラムが掲載されている。同時にこの文化センターが手掛ける「ぴあ」のようなチケット販売で扱う演目についても細かく情報が載っているのがポイントだ。このチケットサービスを「両廳院售票NTCH Ticketing Service」という。このチケットサービスを経由して購入できるプログラムはかなりの数にのぼるので、時間がなければこのフリーペーパーだけを頼りに観劇計画を立てても相当面白いと思う。網羅しているのは、音楽、演劇、舞踊、親子(子供向けのプログラム)、映画、などである(ちなみに映画についてはかなり少ない)。
●Web→http://www.artsticket.com.tw/CKSCC2005/Home/Home00/index.aspx
②『文化快逓 CULTURE EXPRESS』
これも月刊のフリーペーパーで、別名を「台北市芸文資訊総覧」といい台北市文化局が発行している。これも①と同じく方々に置いてありとても便利である。これのいいところは①のチケットサービスで扱っていないプログラムまで網羅していること、「専題特区」としてその月の注目すべきイベントを詳しく紹介していること、美術展の情報があること、台北市内のイベントだけでなく、近隣のイベントも多少扱っていることなどである。ただしとりわけ舞台に関する紹介は①に及ばないところがあり、やはり②だけを観ていては物足りない。
●Web→http://express.culture.gov.tw/home.php
とりあえずこの二つを観ておけば大丈夫だが、「両廳院售票」で扱っていないチケットは、直接劇団に問い合わせるか、あるいは「年代售票 ERA TICKET」で扱っている可能性があるので確かめなければならない。「年代售票」がいいのは、各コンビニエンスストアでチケット購入ができることである。ただし「年代售票」が扱う演劇の類はあまり多くはない。「両廳院售票」はネット上でも購入できるが、会員登録やネット決済が条件なのでやや面倒だろう。ちなみに僕自身は、「両廳院售票」のネットワークである誠品書店で購入している。
と、ここまで書いて、こういうことは某研究会の会報に書けばよかったかな、とちょっと後悔。ま、いいか。
淡水のうた [alternative]
南港から淡水まではやはり遠い。8月の最後の週末、夏の名残を惜しむ人々が、強い陽射しをものともせず賑やかに集まっている。
Tシャツと短パン姿のHは、一眼レフを肩に提げてまぶしそうな表情で僕に近づいてくる。1週間前と同じ、今起きたばかりのような眠たそうなまなざし。襟のあるシャツを着ていない分だけ大学生らしい子どもっぽさが増したように感じる。僕らは大多数の観光客がそうするように、そして僕が今まで幾度となく淡水に来たときと同じように、淡水河畔の道を臭豆腐の香りを嗅ぎながら歩く。待ち合わせを夕方の4時にしておいたのは正解だった。木陰に入った時に吹き寄せる風はもう真夏のそれではない。
河畔の道はまだまだ続くというのに、Hは僕を河畔から離れた中正路の方へと誘う。そして鉄蛋の店の前を過ぎ、通り沿いの廟の脇にある細い坂道を上がっていく。何の変哲もない坂道には、かつての洋行であったことを思わせる古い建物がひっそりと佇んでいた。坂道と目の前に広がる淡水河、その間に細長くはりつく様に建つ瓦葺や煉瓦造りの家や廟は、尾道の街を髣髴とさせる。細い坂道は清水巌という別の廟へと続いていた。その脇から更に奥へと続く細い路地は見たところなんということはない古い住宅街の風情なのだが、“重建街”という名前のこの路地が当地の政治家たちによって失われつつあることを、大学の歴史の授業で淡水の街をフィールドワークしたというHが教えてくれた。夕方の涼しい風に当たっていたおばさんにHが台湾語で話しかける。どうやら、清水巌の近くまで観光バスが入っていけるように、家並みをつぶして路地の拡幅を図るようなのだ。静かな生活を奪われ、引越しを余儀なくされる住民たちの反対運動は、ヤクザがらみの男たちに妨害され、抵抗の声を上げづらくなっている。
利権と分かちがたく結びついた政治は、国や時代を問わず、ささやかな人々の平凡な幸せを簡単に握りつぶすものなのだ。そういうささやかな人に寄り添おうと、熱心に耳を傾けるHの姿が印象的だったが、台湾語がさっぱり分からない僕は分かったような表情で一緒に相槌を打たなければならなかった。
それから僕らは、周杰倫の出身校であり映画『言えない秘密』のロケ地でもある淡江高校のキャンパスを歩いた。その隣の真理大学(旧牛津学堂)もそうだが、馬偕博士(George Leslie Mackay,1844-1901)の遺産は今も美しい建築群として残っている。馬偕氏は宣教師、医師、教育者としてこの淡水の地を皮切りに台湾に多大な貢献をしたスコットランド系カナダ人である。
このあたりから眺める淡水河の風景は、今まで見たことがない。その美しさにばかりに気をとられて写真を撮ったあと、ふと後ろを振り向くと、Hがファインダー越しに僕を見つめている。あわてて顔をそらすと、ほら、こっちを向いてと僕を促す。
─你乖,轉過來吧。
─沒什麽好看的,你不要拍我。
H、僕はこのとき、僕らの年齢差を完全に忘れていた。君が老成しているのか、僕が幼稚なのかはわからない。たぶんその両方なのだろう。
Hの部屋で、鯨向海の詩集や王盛弘のエッセイやよしもとばななの小説を眺めながら、僕はまるで長いこと会っていない大学の同級生に会ったような気分になったものだ。
翌朝、蛋巻と豆乳の朝食をとってHと分かれた後、捷運に乗る前にひとりで立ち寄った有河BOOKで、Hが好きだという陳克華の詩集を二冊買った。
その冒頭の詩「唖鈴(アレイ)の歌」は、以前上海で出会った歌手のCOCOを思い出させた。そのとき彼は僕に自作の詩を聞かせてくれたのだ。残念なことにその詳細は忘れてしまったが、そのタイトルは確か「色のない絵具」だったと思う。色のない絵具で自分の好きな絵を描きたい。見える者にしか見えないその色は、ゲイとしての抑圧された少年時代を象徴している。そこには哀しみと、哀しみから解放される歓びが分かちがたく結びついている。陳克華の詩はそれに似たアンビギュアスな感慨を喚起するものだ。
「色のない絵具」と「唖鈴(=鳴らない鈴)の歌」。そのどちらもが、描くべき(=うたうべき)歓びを自覚しながら、それを表現できない哀しみを深く深く刻み込んでいるようだ。
H、僕は君に出会えたことに感謝しながら、しかしそれを歌にしてうたうすべを持たず途方に暮れている。そんな感傷に浸りながら、僕はひとり淡水の街を後にした。
Tシャツと短パン姿のHは、一眼レフを肩に提げてまぶしそうな表情で僕に近づいてくる。1週間前と同じ、今起きたばかりのような眠たそうなまなざし。襟のあるシャツを着ていない分だけ大学生らしい子どもっぽさが増したように感じる。僕らは大多数の観光客がそうするように、そして僕が今まで幾度となく淡水に来たときと同じように、淡水河畔の道を臭豆腐の香りを嗅ぎながら歩く。待ち合わせを夕方の4時にしておいたのは正解だった。木陰に入った時に吹き寄せる風はもう真夏のそれではない。
河畔の道はまだまだ続くというのに、Hは僕を河畔から離れた中正路の方へと誘う。そして鉄蛋の店の前を過ぎ、通り沿いの廟の脇にある細い坂道を上がっていく。何の変哲もない坂道には、かつての洋行であったことを思わせる古い建物がひっそりと佇んでいた。坂道と目の前に広がる淡水河、その間に細長くはりつく様に建つ瓦葺や煉瓦造りの家や廟は、尾道の街を髣髴とさせる。細い坂道は清水巌という別の廟へと続いていた。その脇から更に奥へと続く細い路地は見たところなんということはない古い住宅街の風情なのだが、“重建街”という名前のこの路地が当地の政治家たちによって失われつつあることを、大学の歴史の授業で淡水の街をフィールドワークしたというHが教えてくれた。夕方の涼しい風に当たっていたおばさんにHが台湾語で話しかける。どうやら、清水巌の近くまで観光バスが入っていけるように、家並みをつぶして路地の拡幅を図るようなのだ。静かな生活を奪われ、引越しを余儀なくされる住民たちの反対運動は、ヤクザがらみの男たちに妨害され、抵抗の声を上げづらくなっている。
利権と分かちがたく結びついた政治は、国や時代を問わず、ささやかな人々の平凡な幸せを簡単に握りつぶすものなのだ。そういうささやかな人に寄り添おうと、熱心に耳を傾けるHの姿が印象的だったが、台湾語がさっぱり分からない僕は分かったような表情で一緒に相槌を打たなければならなかった。
それから僕らは、周杰倫の出身校であり映画『言えない秘密』のロケ地でもある淡江高校のキャンパスを歩いた。その隣の真理大学(旧牛津学堂)もそうだが、馬偕博士(George Leslie Mackay,1844-1901)の遺産は今も美しい建築群として残っている。馬偕氏は宣教師、医師、教育者としてこの淡水の地を皮切りに台湾に多大な貢献をしたスコットランド系カナダ人である。
このあたりから眺める淡水河の風景は、今まで見たことがない。その美しさにばかりに気をとられて写真を撮ったあと、ふと後ろを振り向くと、Hがファインダー越しに僕を見つめている。あわてて顔をそらすと、ほら、こっちを向いてと僕を促す。
─你乖,轉過來吧。
─沒什麽好看的,你不要拍我。
H、僕はこのとき、僕らの年齢差を完全に忘れていた。君が老成しているのか、僕が幼稚なのかはわからない。たぶんその両方なのだろう。
Hの部屋で、鯨向海の詩集や王盛弘のエッセイやよしもとばななの小説を眺めながら、僕はまるで長いこと会っていない大学の同級生に会ったような気分になったものだ。
翌朝、蛋巻と豆乳の朝食をとってHと分かれた後、捷運に乗る前にひとりで立ち寄った有河BOOKで、Hが好きだという陳克華の詩集を二冊買った。
その冒頭の詩「唖鈴(アレイ)の歌」は、以前上海で出会った歌手のCOCOを思い出させた。そのとき彼は僕に自作の詩を聞かせてくれたのだ。残念なことにその詳細は忘れてしまったが、そのタイトルは確か「色のない絵具」だったと思う。色のない絵具で自分の好きな絵を描きたい。見える者にしか見えないその色は、ゲイとしての抑圧された少年時代を象徴している。そこには哀しみと、哀しみから解放される歓びが分かちがたく結びついている。陳克華の詩はそれに似たアンビギュアスな感慨を喚起するものだ。
僕はまた唖鈴のもとへ帰る。唖鈴はまるで/歌のようだ/僕だって似たようなもの;/けれども僕らはどちらもただ黙りこくっているだけ。(陳克華「唖鈴之歌」より抜粋『欠砍頭詩』九歌出版社、1995初版、ぱこにこ訳)
「色のない絵具」と「唖鈴(=鳴らない鈴)の歌」。そのどちらもが、描くべき(=うたうべき)歓びを自覚しながら、それを表現できない哀しみを深く深く刻み込んでいるようだ。
H、僕は君に出会えたことに感謝しながら、しかしそれを歌にしてうたうすべを持たず途方に暮れている。そんな感傷に浸りながら、僕はひとり淡水の街を後にした。
墾丁の夏 [travel]
日記さぼりまくりです。
7月の中旬に台湾文学の論文(というか評論)をやっと完成させて、同じく7月26日には歴史語言研究所で神楽(かぐら)の講演をし、なれない仕事と台北の夏の暑さにやられてぐったり。講演の後は4組ほどの友人が陸続と訪台したのを機に、ストイックだった6月7月の生活から離れて、久々に美食を堪能。そしてついに、念願だった墾丁旅行へ。
8月13日はちょうど3組目の友人が帰国するのを見送った後、同業の先輩と永康街で夕食を食べたが、牡蠣を食べた後くらいから急に頭痛がし始め、なんとなく辛くなり、食事もそこそこにタクシーを呼んで帰宅することにした。翌日は朝から墾丁旅行、こんなところでくたばってはいけない、と思えば思うほどタクシーの中で状態は悪化、もう吐き気がしてたまらない。ついに帰宅の途上で嘔吐してしまった。頭痛はするものの意識ははっきりしていて、落ち着いて服や身体を洗い、就寝。幸いなことに翌朝はかなり状態が回復していた。
台北から左営までは高鉄で約1時間半。それから墾丁快線というバスで2時間ということだったが、週末ということもあり2時間半ほどかけて墾丁へ到着。墾丁随一の目抜き通りはものすごい人と車で溢れていた。まずは民宿の1階の食堂で食事を済ませ、身支度をした後は歩いて行けるビーチ、小湾へ。プライベートビーチのような小さな入り江で、雰囲気はいいが、入り江が小さい分ゴミなどが潮で集まってきてしまい、水の透明度が低いのが玉に疵。それでも台北とはくらべものにならないくらい大きな太陽と碧い空、緑濃い山並みに気分はすでに南国リゾートだ。
同行のWが入り江の左側にある岩礁部に熱帯魚がたくさんいると教えてくれる。そこで潜ってみると、水の透明度もなかなかで水槽の中でしか見たことのない熱帯魚たちがその姿を魅せてくれた。ふと頭を上げると、ゴールデンリトリーバーらしき大型犬を海で泳がせている男の子が眼に入った。地元の子らしいまなざし。ちょうど良い具合に焼けた肌と筋肉。犬は岩礁部に這い上がって、ぶるぶると全身の毛を震わせて水を切る。そのひとつひとつの光景がすべて愛おしく思えた。
夕方近くなって、そろそろ海を上がろうと思って見渡してもWがいない。まだ岩礁部で熱帯魚を見ているようだ。呼びに行くと、犬を連れていたさっきの男の子と話している。帰るぞーと呼びかけると、なんとなく去りがたいのかこちらを向いて笑う。
─認識新的朋友了,你也來吧。
─哦,不過時間有點趕,我不用了。
─啊,你不想認識嗎?他很不錯耶。
そりゃあ知り合いたいけど、ちょっと時間的に余裕ないし。するとWは、OK、じゃあもう行かなくちゃならないと伝えてくるよ。
ごめんよW、せっかくのチャンスを奪ってしまったようだ。ねえどうして彼がそうだってわかったの?
泳いでいたらちょっと眼が合ったんだ。ほんの少し見つめ返したら、彼は一旦離れていった。でもまた戻ってきたんだよ、そしてまた視線があった。わざわざまた戻ってきたんだから、そうだなって感じたんだ。それからどちらともなく会話を始めたのさ…
それから僕らは車をチャーターして、台湾島最南端の鵝鑾鼻の岬へ信じられないくらい美しい夕陽を観に行った。風と波の音しか聴こえない…
夕食の後、墾丁の目抜き通りに並ぶ屋台を眺めながら散歩した後、僕とWは宿のパソコンで墾丁のゲイバーを検索して見ることにした。でも墾丁にゲイバーがあるなんて聞いたことがない。インターネットでも見つからず、どうしようかと考えているうちに、台南の作家、KTのことをふと思い出した。小説集『男湾』の作者としても知られるKTとは一度台南で会ったことがある。彼は作品に登場させるほど墾丁に詳しいのだ。すぐに携帯のショートメールで尋ねてみた。
すると、数分もしないうちにKT本人から電話がかかった。
─Hey,好久不見,你在墾丁嗎?
─對呀,我今天中午剛到耶。
─好巧,我也今天在墾丁耶,不過我人已在高雄了。
わお、KTも墾丁にいたなんて。彼は南湾ビーチに日帰りできていたそうだ。なんて偶然。彼は言った。墾丁にゲイバーなんてないよ、でも歩いていればすぐそうだってわかるだろ、それで話しかければいいのさ。
Wもこの偶然に大笑いする。KTの言うことももっともだと思った僕らは、さっきまで散漫だった注意力を呼び覚まして、再び墾丁の夜の街へと繰り出して行った。
7月の中旬に台湾文学の論文(というか評論)をやっと完成させて、同じく7月26日には歴史語言研究所で神楽(かぐら)の講演をし、なれない仕事と台北の夏の暑さにやられてぐったり。講演の後は4組ほどの友人が陸続と訪台したのを機に、ストイックだった6月7月の生活から離れて、久々に美食を堪能。そしてついに、念願だった墾丁旅行へ。
8月13日はちょうど3組目の友人が帰国するのを見送った後、同業の先輩と永康街で夕食を食べたが、牡蠣を食べた後くらいから急に頭痛がし始め、なんとなく辛くなり、食事もそこそこにタクシーを呼んで帰宅することにした。翌日は朝から墾丁旅行、こんなところでくたばってはいけない、と思えば思うほどタクシーの中で状態は悪化、もう吐き気がしてたまらない。ついに帰宅の途上で嘔吐してしまった。頭痛はするものの意識ははっきりしていて、落ち着いて服や身体を洗い、就寝。幸いなことに翌朝はかなり状態が回復していた。
台北から左営までは高鉄で約1時間半。それから墾丁快線というバスで2時間ということだったが、週末ということもあり2時間半ほどかけて墾丁へ到着。墾丁随一の目抜き通りはものすごい人と車で溢れていた。まずは民宿の1階の食堂で食事を済ませ、身支度をした後は歩いて行けるビーチ、小湾へ。プライベートビーチのような小さな入り江で、雰囲気はいいが、入り江が小さい分ゴミなどが潮で集まってきてしまい、水の透明度が低いのが玉に疵。それでも台北とはくらべものにならないくらい大きな太陽と碧い空、緑濃い山並みに気分はすでに南国リゾートだ。
同行のWが入り江の左側にある岩礁部に熱帯魚がたくさんいると教えてくれる。そこで潜ってみると、水の透明度もなかなかで水槽の中でしか見たことのない熱帯魚たちがその姿を魅せてくれた。ふと頭を上げると、ゴールデンリトリーバーらしき大型犬を海で泳がせている男の子が眼に入った。地元の子らしいまなざし。ちょうど良い具合に焼けた肌と筋肉。犬は岩礁部に這い上がって、ぶるぶると全身の毛を震わせて水を切る。そのひとつひとつの光景がすべて愛おしく思えた。
夕方近くなって、そろそろ海を上がろうと思って見渡してもWがいない。まだ岩礁部で熱帯魚を見ているようだ。呼びに行くと、犬を連れていたさっきの男の子と話している。帰るぞーと呼びかけると、なんとなく去りがたいのかこちらを向いて笑う。
─認識新的朋友了,你也來吧。
─哦,不過時間有點趕,我不用了。
─啊,你不想認識嗎?他很不錯耶。
そりゃあ知り合いたいけど、ちょっと時間的に余裕ないし。するとWは、OK、じゃあもう行かなくちゃならないと伝えてくるよ。
ごめんよW、せっかくのチャンスを奪ってしまったようだ。ねえどうして彼がそうだってわかったの?
泳いでいたらちょっと眼が合ったんだ。ほんの少し見つめ返したら、彼は一旦離れていった。でもまた戻ってきたんだよ、そしてまた視線があった。わざわざまた戻ってきたんだから、そうだなって感じたんだ。それからどちらともなく会話を始めたのさ…
それから僕らは車をチャーターして、台湾島最南端の鵝鑾鼻の岬へ信じられないくらい美しい夕陽を観に行った。風と波の音しか聴こえない…
夕食の後、墾丁の目抜き通りに並ぶ屋台を眺めながら散歩した後、僕とWは宿のパソコンで墾丁のゲイバーを検索して見ることにした。でも墾丁にゲイバーがあるなんて聞いたことがない。インターネットでも見つからず、どうしようかと考えているうちに、台南の作家、KTのことをふと思い出した。小説集『男湾』の作者としても知られるKTとは一度台南で会ったことがある。彼は作品に登場させるほど墾丁に詳しいのだ。すぐに携帯のショートメールで尋ねてみた。
すると、数分もしないうちにKT本人から電話がかかった。
─Hey,好久不見,你在墾丁嗎?
─對呀,我今天中午剛到耶。
─好巧,我也今天在墾丁耶,不過我人已在高雄了。
わお、KTも墾丁にいたなんて。彼は南湾ビーチに日帰りできていたそうだ。なんて偶然。彼は言った。墾丁にゲイバーなんてないよ、でも歩いていればすぐそうだってわかるだろ、それで話しかければいいのさ。
Wもこの偶然に大笑いする。KTの言うことももっともだと思った僕らは、さっきまで散漫だった注意力を呼び覚まして、再び墾丁の夜の街へと繰り出して行った。
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