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2010年の終わりに [life]

今年も残すところ後数時間。年を越したら民国100年だ。辛亥革命からもう1世紀。というか百年前はまだ清朝だったんだ。
ところで中国語文化圏の年越しはもちろん旧正月、春節を祝う方が重要で賑やかではあるが、それを「過年」と言う。台湾でもそれはそうなんだけれど、新暦の大晦日、元旦にもそれなりの過ごし方があるみたい。101ビルの花火は有名だし、とくに若い世代はパーティーを開いたりしている。
それで、日本のような正月気分という感じにはいかないものの、ここ最近こういう挨拶が普通になる。

「你跨年怎麽跨?(新年はどうやって迎えるの?)」

つまり新暦の正月を迎えることを「跨年」と言って「過年」と区別しているのだ。
こういう新しいことを学ぶたびに、生活こそが学習であると嬉しくなるのである。

陰翳礼讃.jpgさて、11月から12月にかけてざっと振り返っておきたい。
11月13日はなんといっても、王盛弘との対談である。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』について語り合ったのだが、谷崎の専門家でもない僕は斜めからしか語ることが出来ない。『陰翳礼讃』のなかで谷崎は、陰翳の美としての「能楽」や、それと「歌舞伎」の美との違いなどに言及している。これに絡めて、日本演劇における「陰翳の美」について語ってみた。僕が注目したのは、昭和8年に書かれた『陰翳礼讃』が昭和50年以降文庫化され読み継がれ続けているという事実である。文庫化と同時代の70年代は、その少し前の60年代と合わせて、所謂前衛的な小劇場運動が活発化した年代である。寺山や唐や佐藤信や鈴木忠志は、それぞれのやり方で「近代」としての「新劇」を否定する。「新劇」はそもそも前近代の演劇(歌舞伎)を否定したのだから、「新劇」の否定は、「前近代」の否定の否定、つまり一回りした肯定ということだ。じじつ、小劇場運動の担い手たちは、見世物の復権、神社の小屋掛け舞台、古武道と能楽などを巧みに融合させた身体訓練法など、違うルートで同じ山頂を目指すという活動を繰り広げたのである。しかも、彼らの芝居に共通しているのは、その空間の暗さである。小さくて暗い空間は近代的な光を避けるように、しかしじゅうぶん光に対抗できるエネルギーを発しながら存在したのである。鈴木忠志について言えば、谷崎との縁浅からぬものがある。たとえば、利賀村の利賀山房は、谷崎の『陰翳礼讃』に影響を受けたと自ら語る磯崎新の設計によるものだし、鈴木は利賀山房について闇の瀰漫した空間だと認識する。また後に鈴木は『別冊谷崎潤一郎』という芝居を創り、例のテクストをコラージュする方法で谷崎作品に取り組んでもいる。「近代」に対する谷崎的な内省の視点は、地下水脈のように現在につながっているのである。

12月3日には台湾人研究者のHLと彼の車で嘉義の中正大学に遊びに行き、中正の先生方と鵞鳥の肉で酒を酌み交わした。翌日は新港と北港の媽祖廟へ行き、都会とは流れ方の違う時間を楽しんだ。二日目の夜、僕はHLと先生たちと別れ、嘉義から高雄まで行き、友人を訪ねた。久々の高雄では何をしたというのではないが、二泊させてもらって南部の空気をたくさん吸い込むことができた。

新港廟.jpg12月10日から12日は台中で友人と会い、逢甲夜市、東海書苑、国立美術館などを巡り、古本の収穫もあった。逢甲夜市の一新素食で売っている臭豆腐の味は忘れられない。たぶん今まで食べた臭豆腐で一番美味い。低温と高温、二つの鍋で丁寧に揚げるのがコツらしい。

12月28日は同業のみんちりご夫妻と一緒に北海岸は三芝へ。三芝の孔子を祀る古い廟(智成堂)と李天禄偶戯文物館を観た後、テレビでも有名なチーズケーキのお店「三芝小豬」へ。友人でもあるご主人にごちそうになって(一番好きなのは青りんごとシナモンのチーズケーキ)、さらに車で貝殻廟、十八王公廟などを案内してもらい最後は淡水駅まで送ってもらった。ただただ感謝。

昨夜(12月30日)は、気のおけない友人の研究者たちと火鍋を囲み、手作りの蓮霧酒で楽しい一夜を過ごした。飲み過ぎて体調が悪くなるまで…。

そして静かな大晦日の午後である。今夜はおそらく西門町の紅楼で友人たちとカウントダウンの花火を眺めながら年を「跨」いでいるはずである。

タグ:台湾 文学 演劇
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