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淡水のうた [alternative]

tansui1.jpg南港から淡水まではやはり遠い。8月の最後の週末、夏の名残を惜しむ人々が、強い陽射しをものともせず賑やかに集まっている。

Tシャツと短パン姿のHは、一眼レフを肩に提げてまぶしそうな表情で僕に近づいてくる。1週間前と同じ、今起きたばかりのような眠たそうなまなざし。襟のあるシャツを着ていない分だけ大学生らしい子どもっぽさが増したように感じる。僕らは大多数の観光客がそうするように、そして僕が今まで幾度となく淡水に来たときと同じように、淡水河畔の道を臭豆腐の香りを嗅ぎながら歩く。待ち合わせを夕方の4時にしておいたのは正解だった。木陰に入った時に吹き寄せる風はもう真夏のそれではない。

河畔の道はまだまだ続くというのに、Hは僕を河畔から離れた中正路の方へと誘う。そして鉄蛋の店の前を過ぎ、通り沿いの廟の脇にある細い坂道を上がっていく。何の変哲もない坂道には、かつての洋行であったことを思わせる古い建物がひっそりと佇んでいた。坂道と目の前に広がる淡水河、その間に細長くはりつく様に建つ瓦葺や煉瓦造りの家や廟は、尾道の街を髣髴とさせる。細い坂道は清水巌という別の廟へと続いていた。その脇から更に奥へと続く細い路地は見たところなんということはない古い住宅街の風情なのだが、“重建街”という名前のこの路地が当地の政治家たちによって失われつつあることを、大学の歴史の授業で淡水の街をフィールドワークしたというHが教えてくれた。夕方の涼しい風に当たっていたおばさんにHが台湾語で話しかける。どうやら、清水巌の近くまで観光バスが入っていけるように、家並みをつぶして路地の拡幅を図るようなのだ。静かな生活を奪われ、引越しを余儀なくされる住民たちの反対運動は、ヤクザがらみの男たちに妨害され、抵抗の声を上げづらくなっている。

利権と分かちがたく結びついた政治は、国や時代を問わず、ささやかな人々の平凡な幸せを簡単に握りつぶすものなのだ。そういうささやかな人に寄り添おうと、熱心に耳を傾けるHの姿が印象的だったが、台湾語がさっぱり分からない僕は分かったような表情で一緒に相槌を打たなければならなかった。

tansui3.jpgそれから僕らは、周杰倫の出身校であり映画『言えない秘密』のロケ地でもある淡江高校のキャンパスを歩いた。その隣の真理大学(旧牛津学堂)もそうだが、馬偕博士(George Leslie Mackay,1844-1901)の遺産は今も美しい建築群として残っている。馬偕氏は宣教師、医師、教育者としてこの淡水の地を皮切りに台湾に多大な貢献をしたスコットランド系カナダ人である。

このあたりから眺める淡水河の風景は、今まで見たことがない。その美しさにばかりに気をとられて写真を撮ったあと、ふと後ろを振り向くと、Hがファインダー越しに僕を見つめている。あわてて顔をそらすと、ほら、こっちを向いてと僕を促す。

tansui2.jpg─你乖,轉過來吧。
─沒什麽好看的,你不要拍我。

H、僕はこのとき、僕らの年齢差を完全に忘れていた。君が老成しているのか、僕が幼稚なのかはわからない。たぶんその両方なのだろう。

Hの部屋で、鯨向海の詩集や王盛弘のエッセイやよしもとばななの小説を眺めながら、僕はまるで長いこと会っていない大学の同級生に会ったような気分になったものだ。

翌朝、蛋巻と豆乳の朝食をとってHと分かれた後、捷運に乗る前にひとりで立ち寄った有河BOOKで、Hが好きだという陳克華の詩集を二冊買った。

その冒頭の詩「唖鈴(アレイ)の歌」は、以前上海で出会った歌手のCOCOを思い出させた。そのとき彼は僕に自作の詩を聞かせてくれたのだ。残念なことにその詳細は忘れてしまったが、そのタイトルは確か「色のない絵具」だったと思う。色のない絵具で自分の好きな絵を描きたい。見える者にしか見えないその色は、ゲイとしての抑圧された少年時代を象徴している。そこには哀しみと、哀しみから解放される歓びが分かちがたく結びついている。陳克華の詩はそれに似たアンビギュアスな感慨を喚起するものだ。

僕はまた唖鈴のもとへ帰る。唖鈴はまるで/歌のようだ/僕だって似たようなもの;/けれども僕らはどちらもただ黙りこくっているだけ。(陳克華「唖鈴之歌」より抜粋『欠砍頭詩』九歌出版社、1995初版、ぱこにこ訳)

「色のない絵具」と「唖鈴(=鳴らない鈴)の歌」。そのどちらもが、描くべき(=うたうべき)歓びを自覚しながら、それを表現できない哀しみを深く深く刻み込んでいるようだ。
H、僕は君に出会えたことに感謝しながら、しかしそれを歌にしてうたうすべを持たず途方に暮れている。そんな感傷に浸りながら、僕はひとり淡水の街を後にした。

タグ:台湾 文学 LGBT
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