SSブログ

「出櫃(カミングアウト)」の作法 [alternative]

善男子.jpg詩人のCKHはその詩の作風とは少しイメージの違う温和な人だった。グロテスクな人間の存在をえぐり出すような、猥褻さと戦闘性を兼ね備えた詩風からは距離を置く静謐な佇まい。もちろんそういう詩ばかりというわけではないのだが。いやもしかすると矛盾などなにもない、さまざまな色を持つ総体としての存在というべきだろうか。彼がかつて巻き込まれたカミングアウトにまつわる事件は、そのスキャンダラスな側面はさておき、「ゲイ」という言葉が孕むアイデンティティの政治の問題を喚起するものである。事件の顛末は、心ない人間が極道を騙り、ゲイであることを勤務先に暴露するとCKHを脅迫したというものだ。デビューした時から多くの「同志詩」を書いており、いまさら暴露するとかしないとかということに対する奇妙な違和感がCKHじしんにはあった。しかしこんなくだらない事件によって自分のアイデンティティが白日のもとにさらされることに対する怒りのほうが強かったのではないだろうか。大手メディアの取材に対し「ゲイではない」と告げたことがゲイの友人たちを落胆させたことは確かだろう。しかしそれよりもだいじなことはカミングアウトという行為は当事者が持つべき権利であり何人もそれを犯すことはできない、ということだ。芸能スキャンダル程度にしか扱わないような大手メディアに対してはカミングアウトしない権利をCKHが行使しただけの話ではないか。

─ところできみもゲイなの?

CKHが少し逡巡しながら、しかし問わなければならないタイミングで僕に問うた時、僕は一瞬どのように答えればいいか言葉に詰まってしまった。それは、メディアに対するCKHの感覚と同じではない。それとはまた別の感覚だ。ひとつは、それを言葉に出してみることの違和感と言ったらいいだろうか。「ゲイ」であることの宣言はマイノリティであることの宣言であり、意識するかしないかに拘わらず、その宣言は既に政治性と密接に関わっている。この社会が異性愛主体で構築されている以上、それと拮抗するあるいは矛盾する存在であることを認めることは政治的行為に違いない。戦略的に「ゲイ」と名乗ることによって、異性愛主義に対抗するための回路が開かれる場合もあるし、それが必要な時もあるだろう。

一方で、ゲイではない別の側面も僕にはあるのに、ゲイの宣言がそれ以外の属性を見えにくくさせてしまう、あるいは捨象してしまう恐れも感じる。言葉は制度であり、その言葉を選んだ途端、その制度にがんじがらめになってしまうという窮屈さもある。たとえば、「ゲイ」の宣言をすることで女性に恋すること、欲情することは禁止されてしまうということもあるだろう。「性」ほど奥深くわかりにくいものはない。その本人も知らない欲望が今後顕在化してくる可能性も否定できない。

たぶん、僕の逡巡、つまりCKHに問いを発せられたときの躊躇いとはそのことと分かちがたく結びついている。ある言葉を選びとった瞬間に、それ以外の言葉の可能性を捨ててしまうことへの迷い。
「出櫃(カミングアウト)」とは単に(異性愛)社会と向きあう覚悟を負わされることではない。自分のなかの暗くて深い未知とのせめぎあいのなかで、まさに自分を抉り出すような行為なのである。

【参考】陳克華「我的出櫃日(代序)」『善男子』(九歌出版、2006)




タグ: 台湾 LGBT
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

時間夜市にて ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。