八月街角 [literature]
盂蘭盆過後
街角陽光依然刺眼,不過
多了一絲絲秋意
樹陰斑駁
關於夏日的一切終將變成回憶,那是
無盡徘徊,獨一無二的夏日
單車少年
白色襯衫飛揚
顯露黝黑肌膚
卻沒有表情,不過
我知道
知道他在那假面之下
蘊藏著快中暑的如火般的慾望,那是
即將成為回憶的
鹹鹹、曡曡的夏日
擦肩的一刹那
夏日的汗香
混雜著太陽跟操場
還有一絲絲秋意
即興的風吹起
混淆你我
不知你是否也聞到你我交疊的味道
秋意是鹹鹹、曡曡的夏日
也是種汗味的廢墟
(※感謝朋友阿伯的指教)
街角陽光依然刺眼,不過
多了一絲絲秋意
樹陰斑駁
關於夏日的一切終將變成回憶,那是
無盡徘徊,獨一無二的夏日
單車少年
白色襯衫飛揚
顯露黝黑肌膚
卻沒有表情,不過
我知道
知道他在那假面之下
蘊藏著快中暑的如火般的慾望,那是
即將成為回憶的
鹹鹹、曡曡的夏日
擦肩的一刹那
夏日的汗香
混雜著太陽跟操場
還有一絲絲秋意
即興的風吹起
混淆你我
不知你是否也聞到你我交疊的味道
秋意是鹹鹹、曡曡的夏日
也是種汗味的廢墟
(※感謝朋友阿伯的指教)
曖昧な体温 [literature]
真夜中、疲れ果てて眠りにつきかけた僕の髪を
まるで赤ん坊をなでるようになでて
すべりこんでくる君の体温
その体温はまるで可能性と不可能性の間でもがいていた
ハタチの僕の好奇心
真夜中、呉晟の詩をうたう歌声のなかに漂いながら
意識と無意識のあいだをやわらかく裂いて
すべりこんでくる君の右腕
その右腕はまるで壊れかけた一眼レフの
ファインダーの向こうのまなざし
曖昧な体温
曖昧な右腕
君の詩を醸してできた夜の香りのなかで
とけあいからみあっていく
やがて
南部の朝の光が
静かに僕らを抱きしめはじめる
そして
池に浮かぶ花のつぼみは
しなやかに充血しはじめる
曖昧と覚醒のあいだで
まるで赤ん坊をなでるようになでて
すべりこんでくる君の体温
その体温はまるで可能性と不可能性の間でもがいていた
ハタチの僕の好奇心
真夜中、呉晟の詩をうたう歌声のなかに漂いながら
意識と無意識のあいだをやわらかく裂いて
すべりこんでくる君の右腕
その右腕はまるで壊れかけた一眼レフの
ファインダーの向こうのまなざし
曖昧な体温
曖昧な右腕
君の詩を醸してできた夜の香りのなかで
とけあいからみあっていく
やがて
南部の朝の光が
静かに僕らを抱きしめはじめる
そして
池に浮かぶ花のつぼみは
しなやかに充血しはじめる
曖昧と覚醒のあいだで
“小さな歴史”と“生きる“ということ [literature]
台湾で買った小説の収穫を。
僕たちが途方に暮れてしまうのは、LGBTのライフスタイルを、つまり自分の明日の姿を描くのが難しいからだ。女性が職を持ちシングルで生きていこうとするとき、お手本になるような現実の生き方の提示は彼女の背中を押すだろう。でもきっと、男社会で最初にそれをやってのけるのは並大抵のことではなかったに違いない。そういう歩き出す勇気をもった人がいて、徐々に歩く人が増えていけば、そこに道はできる。
けれどもLGBTが抱える困難は、その比ではない。だからこそ、僕らにはどういう生き方、どういうライフスタイルが可能なのか、を少しずつでも提案していく必要があるような気がする。解説で、小さな歴史(“小史”)というキーワードを用いた紀大偉に倣えば、LGBTの日常のささやかな断片は、僕らに生きる勇気を与えてくれる。徐嘉澤の短篇集『窺』は、そういう可能性を広げてくれるものとして読むことができる。ゲイ小説は、いつもふしだらな欲望を煽りたてるものというわけではないのだ。
「未盡之言」は、平和な日常に鉄鎚のように落ちてきた癌という病を受け止めるゲイの青年とその恋人の姿を描く。そこにはセックスはない。けれども長く共に生きていこうとする愛はある。愛といい方が鼻につくのなら、絆とかつながりということばで置き換えてもいい。ゲイであるだけでなく、病まで得てしまい、彼らに未来はない。でも最後の日々を生ききろうとする彼らの姿は、僕らのライフスタイルのひとつとして抽斗にしまっておきたいと思う。
癌の恋人が黙って書いていたラブレターを偶然見つけて読んだあと、主人公は震える手でそのファイルを閉じる。
消えゆく命を見守りながらも、ここには、僕らが生きていくための現実のリズムがきちんと刻まれている。『窺』は、こういうささやかで愛すべき“小史”を、覗きみる(窺)ための作品集なのだ。
●徐嘉澤『窺』(基本書坊、2009年2月)
僕たちが途方に暮れてしまうのは、LGBTのライフスタイルを、つまり自分の明日の姿を描くのが難しいからだ。女性が職を持ちシングルで生きていこうとするとき、お手本になるような現実の生き方の提示は彼女の背中を押すだろう。でもきっと、男社会で最初にそれをやってのけるのは並大抵のことではなかったに違いない。そういう歩き出す勇気をもった人がいて、徐々に歩く人が増えていけば、そこに道はできる。
けれどもLGBTが抱える困難は、その比ではない。だからこそ、僕らにはどういう生き方、どういうライフスタイルが可能なのか、を少しずつでも提案していく必要があるような気がする。解説で、小さな歴史(“小史”)というキーワードを用いた紀大偉に倣えば、LGBTの日常のささやかな断片は、僕らに生きる勇気を与えてくれる。徐嘉澤の短篇集『窺』は、そういう可能性を広げてくれるものとして読むことができる。ゲイ小説は、いつもふしだらな欲望を煽りたてるものというわけではないのだ。
「未盡之言」は、平和な日常に鉄鎚のように落ちてきた癌という病を受け止めるゲイの青年とその恋人の姿を描く。そこにはセックスはない。けれども長く共に生きていこうとする愛はある。愛といい方が鼻につくのなら、絆とかつながりということばで置き換えてもいい。ゲイであるだけでなく、病まで得てしまい、彼らに未来はない。でも最後の日々を生ききろうとする彼らの姿は、僕らのライフスタイルのひとつとして抽斗にしまっておきたいと思う。
癌の恋人が黙って書いていたラブレターを偶然見つけて読んだあと、主人公は震える手でそのファイルを閉じる。
將窗戶關上,緊盯著小兔的臉,那安穩、年輕、帥氣的臉,我不禁跪在窗前禱告著,以他信服的上帝為禱告的對象,如果可以我願意替他承擔這一切,這樣的愛或許別人看起來很蠢,但對我來説卻很真實。夜持續地深去,在這裡我們有許多未盡之言漂浮在空氣之中,我們不等待也不反抗死亡的到來,至少要把我們彼此之間能做的及要做的共同完成,我看著床上安穩的他如此確信地想著。(pp47-48)
消えゆく命を見守りながらも、ここには、僕らが生きていくための現実のリズムがきちんと刻まれている。『窺』は、こういうささやかで愛すべき“小史”を、覗きみる(窺)ための作品集なのだ。
●徐嘉澤『窺』(基本書坊、2009年2月)
台北で上海の30年代に出会う [literature]
少し雑事が片付いたので台湾旅行の備忘録を。
台北の国家図書館で、演劇や性/別研究関係の論文を調べる傍ら、『聯合文学』のバックナンバーをつらつら眺めた。実は、今年の4月号が台南特集で、台南に住む僕の友人(作家)が文章を掲載していると聞いたからだ。ほんとうはバックナンバーを買えれば一番いいんだけど、どこに行っても売っていない。台南特集はとても面白くて、特に友人が書いた台南の人文地図のようなスポット(いわく藝文店家)紹介が楽しい。古本屋とか、喫茶店とか、もちろん台湾文学館も… 本人のブログには文章のみ転載されているけど、雑誌の方は写真を使ってカラーレイアウトしていてとてもいいんだな。まあ、それを探すついでに7月号を見たら、特集が「舊書摩登(旧書モダン)」。これがまた趣味がいい構成になっている。この特集には、前回もいっぱい買い物した古本屋「舊香居」の若い女主人(呉雅慧氏)も関わっているらしく、座談会にも登場している。しかも、ちょうどこの時期、30年代の上海を中心とした文芸雑誌などを店内で展示しているようだ。
これはぜひ行かなくては、と、師大路そばのお店に直行した。前回は分からなかったけど、店内には地下室があって、そこが展示スペースになっていた。なにより可愛いいだけでなく出来栄えのすばらしいパンフレットも作られていて気合いが入っている。表紙がまたいい──『近代文学期刊展 五四光影』
とりわけ気になったのは、1914年の『白相朋友』という雑誌で、胡寄塵が主編で柳亜子などが寄稿している。パンフの解説にはなかったが、表紙をみると題字を書いているのは「漱石」らしい。おそらく孫玉声のことだろう。彼も何か書いているとすれば、ぜひ読みたいところなのだが、それはかなわず。とにかく上海図書館にも入っていないし、見たこともない雑誌なのだ。
林懐民の小説集『蝉』の古い版(正確に言うと1978年の第8版、初版は74年)が見つかるなど、性/別関係の収穫もあり充実してるなあと思いつつ、女主人の雅慧とおしゃべり。『聯合文学』の当該号も売ってくれてよかった。彼女はなんども上海などをめぐって古書や古雑誌を蒐集してきたそう。陳子善先生なんかとも知り合いらしい。
今回は文学関係を中心にした展示になったけど、次回には演劇や映画をテーマにしたものにするようだ。たぶん僕が来年台北にいるころになるそうだから、ますます楽しみなのである。
台北の国家図書館で、演劇や性/別研究関係の論文を調べる傍ら、『聯合文学』のバックナンバーをつらつら眺めた。実は、今年の4月号が台南特集で、台南に住む僕の友人(作家)が文章を掲載していると聞いたからだ。ほんとうはバックナンバーを買えれば一番いいんだけど、どこに行っても売っていない。台南特集はとても面白くて、特に友人が書いた台南の人文地図のようなスポット(いわく藝文店家)紹介が楽しい。古本屋とか、喫茶店とか、もちろん台湾文学館も… 本人のブログには文章のみ転載されているけど、雑誌の方は写真を使ってカラーレイアウトしていてとてもいいんだな。まあ、それを探すついでに7月号を見たら、特集が「舊書摩登(旧書モダン)」。これがまた趣味がいい構成になっている。この特集には、前回もいっぱい買い物した古本屋「舊香居」の若い女主人(呉雅慧氏)も関わっているらしく、座談会にも登場している。しかも、ちょうどこの時期、30年代の上海を中心とした文芸雑誌などを店内で展示しているようだ。
これはぜひ行かなくては、と、師大路そばのお店に直行した。前回は分からなかったけど、店内には地下室があって、そこが展示スペースになっていた。なにより可愛いいだけでなく出来栄えのすばらしいパンフレットも作られていて気合いが入っている。表紙がまたいい──『近代文学期刊展 五四光影』
とりわけ気になったのは、1914年の『白相朋友』という雑誌で、胡寄塵が主編で柳亜子などが寄稿している。パンフの解説にはなかったが、表紙をみると題字を書いているのは「漱石」らしい。おそらく孫玉声のことだろう。彼も何か書いているとすれば、ぜひ読みたいところなのだが、それはかなわず。とにかく上海図書館にも入っていないし、見たこともない雑誌なのだ。
林懐民の小説集『蝉』の古い版(正確に言うと1978年の第8版、初版は74年)が見つかるなど、性/別関係の収穫もあり充実してるなあと思いつつ、女主人の雅慧とおしゃべり。『聯合文学』の当該号も売ってくれてよかった。彼女はなんども上海などをめぐって古書や古雑誌を蒐集してきたそう。陳子善先生なんかとも知り合いらしい。
今回は文学関係を中心にした展示になったけど、次回には演劇や映画をテーマにしたものにするようだ。たぶん僕が来年台北にいるころになるそうだから、ますます楽しみなのである。
楽しみ… [literature]
先日の日曜の研究会で、H先生から、台湾文学関係の講演会の招待券をいただいた。
ラッキー♪
9月に行われる県立神奈川近代文学館の「越境しあう日本と台湾の文学」連続講演会。
なにしろ紀大偉がくるからね。前半は台湾滞在中なので、後半の紀大偉のには絶対行くつもり。
ところでまたインフルエンザが流行しているみたい。この時期のA型は新型と考えていいらしい。
でも、その対策としてマスクをつけろ、と職場で言われたんだけど、効果あるのかな?初期にマスク騒動があって、専門家やメディアがそれをあれだけたしなめたにもかかわらず… 咳エチケットの一環としてはいいと思うけども、予防には何の効果もないでしょ。なんかピントがずれてるんだよね。
ラッキー♪
9月に行われる県立神奈川近代文学館の「越境しあう日本と台湾の文学」連続講演会。
なにしろ紀大偉がくるからね。前半は台湾滞在中なので、後半の紀大偉のには絶対行くつもり。
ところでまたインフルエンザが流行しているみたい。この時期のA型は新型と考えていいらしい。
でも、その対策としてマスクをつけろ、と職場で言われたんだけど、効果あるのかな?初期にマスク騒動があって、専門家やメディアがそれをあれだけたしなめたにもかかわらず… 咳エチケットの一環としてはいいと思うけども、予防には何の効果もないでしょ。なんかピントがずれてるんだよね。
Is dying hard,Daddy? [literature]
林懐民の「虹外虹」には、ヘミングウェイの作品が顔を出していると前の日記に書いたけど、「インディアンの村」が冒頭に抜粋されている。翻訳は、高見浩訳『われらの時代 男だけの世界 ヘミングウェイ全短篇1』(新潮文庫)による。
妻の苦しみを背負うかのように自殺した夫の姿に、昔、歌人の佐佐木幸綱先生の授業での話を思い出した。彼の著書にも確か同様のことが書いてあるような気がしたので、うろ覚えを確認する意味でもあるはずの本を探したけどどうしても出てこない。図書館で昔読んだだけかな?現在の勤務先の図書館にも、彼の作品集は入っていなかった。まあそれは仕方がない。
うろ覚えの話とはこうだ。ある日、若者が踏切での人身事故を目撃してしまった。亡くなったのが恋人だったのか、そうでないのか思い出せないが、その後、その若者は原因もわからず失明してしまう。おそらく彼は、「見ること」そのものに耐えられなくなってしまったのだろう…
気になって仕方がないので、佐佐木先生の本をなんとか確認しないといけないな。
"Is dying hard,Daddy?" "No,I think it's pretty easy. Nick. It all depends."
「死ぬときって、苦しいの、パパ?」 「いや、どうってことないとも、ニック。まあ、場合にもよるがね」インディアンの村の妊婦の出産に立ち会った医師と息子の会話。妊婦は苦しみながらも出産をなんとか乗り切った一方で、部屋の片隅にいた彼女の夫は、自らの首を切って自殺していた。なぜ自殺したのか聞くニックに父親は「さあ、わからんよ、ニック。きっと、いろんなことに耐えられなかったんだろう」と答える。その後、上述の会話が交わされるのだ。
妻の苦しみを背負うかのように自殺した夫の姿に、昔、歌人の佐佐木幸綱先生の授業での話を思い出した。彼の著書にも確か同様のことが書いてあるような気がしたので、うろ覚えを確認する意味でもあるはずの本を探したけどどうしても出てこない。図書館で昔読んだだけかな?現在の勤務先の図書館にも、彼の作品集は入っていなかった。まあそれは仕方がない。
うろ覚えの話とはこうだ。ある日、若者が踏切での人身事故を目撃してしまった。亡くなったのが恋人だったのか、そうでないのか思い出せないが、その後、その若者は原因もわからず失明してしまう。おそらく彼は、「見ること」そのものに耐えられなくなってしまったのだろう…
気になって仕方がないので、佐佐木先生の本をなんとか確認しないといけないな。
碧潭、林懐民、ヴェルディ、ヘミングウェイ [literature]
今年の3月、台北でまた台湾大のLに会った。夕飯を食べようと思った師大路夜市が週末のせいか歩くのもままならないくらいに込み合っていたので、しかたなく別の夜市に移動することにした。メトロの新店駅近くにも、こぶりだが感じのいい夜市があるという。新店は烏来に行く時によくおりるけれど、食事をしに行くのは初めてだった。
夜市の牛ステーキを食べて、コンビニでビールを2本買い、すぐそばを流れる新店渓にかかる碧潭吊橋を渡る。涼しい夜風とそれほど派手ではない街の灯り、吊橋のイルミネーションもどこかあか抜けない。渡った向こう岸に降りていくと、貸ボート小屋があり、おじさんが乗らないかと声をかけてくる。
僕らは河岸に腰かけて、ビールを飲む。こんなに素敵な場所があるとは知らなかった。ガイドブックでも見たことがない。ローカルなデートコースなんだよ、とLは笑う。
「小説家」としての林懐民に、「虹外虹」という短篇がある。ある日の午後、大学出たてで兵役についている若者が、碧潭にやってきてボートに乗る、というストーリー。緑濃い河の流れのなかで、彼が思い浮かべるのはヴェルディのオペラ、『リゴレット』のなかの歌曲「女心の歌」だ。小学生の時、音楽の授業で習ったこの歌に夢中になり、成長した後に『リゴレット』のレコードを買った。その雄渾なイタリーオペラに感動しつつも、昔夢中になった「女心の歌」はなぜかその俗っぽい曲調が好きになれず、わざとレコードの針を飛ばしたものだった。しかしボートを漕ぐ彼になぜかあの歌がよみがえってくる。
文学入門の授業なんかで学生に伝えたいことって、つまりこういうことだと思う。こういう瞬間のために、文学ってあるんだよね、と。
小説の中の「彼」は、その後、河の中で泳ぐのだが、溺れて死にかけてしまう。死にかける彼は、愛読書のヘミングウェイ『老人と海』のなかのサンチャゴのようだ。死とは無縁のような若い彼を、「死の匂い」が一気に取り巻いていく。この作品が書かれた1969年といえば、林懐民はまだ22歳。漠然とした「死の匂い」に取りつかれるのは、その若さゆえなのだろうか。死にかけてもう一度蘇った自分にとって、あまりにも変化のない世の中に対する無意味な怒りは、滑稽だが分からないでもない。19年前に父が亡くなった翌朝、その朝の光はまるでそれまでと違って見えた。まるで世界が一晩で色を変えたみたいに、僕の体にしみこんできた。でも、祖母が用意してくれたおむすびを、昨日の朝のように食べているみなを見て、「無意味な怒り」が胸を襲ったことを思い出す。日常というのは、こんなにも堅固で、しかもやるせないものなのだ。
この夏にまた台北を訪れたら、こんどは天気のよい午後に碧潭でボートを漕いでみよう。
●林懐民『蟬』、印刻出版、2002年
(写真:台北碧潭吊橋)
夜市の牛ステーキを食べて、コンビニでビールを2本買い、すぐそばを流れる新店渓にかかる碧潭吊橋を渡る。涼しい夜風とそれほど派手ではない街の灯り、吊橋のイルミネーションもどこかあか抜けない。渡った向こう岸に降りていくと、貸ボート小屋があり、おじさんが乗らないかと声をかけてくる。
僕らは河岸に腰かけて、ビールを飲む。こんなに素敵な場所があるとは知らなかった。ガイドブックでも見たことがない。ローカルなデートコースなんだよ、とLは笑う。
「小説家」としての林懐民に、「虹外虹」という短篇がある。ある日の午後、大学出たてで兵役についている若者が、碧潭にやってきてボートに乗る、というストーリー。緑濃い河の流れのなかで、彼が思い浮かべるのはヴェルディのオペラ、『リゴレット』のなかの歌曲「女心の歌」だ。小学生の時、音楽の授業で習ったこの歌に夢中になり、成長した後に『リゴレット』のレコードを買った。その雄渾なイタリーオペラに感動しつつも、昔夢中になった「女心の歌」はなぜかその俗っぽい曲調が好きになれず、わざとレコードの針を飛ばしたものだった。しかしボートを漕ぐ彼になぜかあの歌がよみがえってくる。
而此刻,亮晶晶的陽光水裏,那首歌又回來了。這是音樂和書本,以及一切形式藝術的好處。你可以不管它們是什麽,表現什麽,只要你認真愛過,在適當的時機,它們就會十分奇妙地、精靈般地幽然出現;老朋友樣地叩訪你,陪伴你,使你在孤獨的生命中,不感到那麽孤單。也只有這群精靈才真真正正完完全全屬於你。其它的東西都是假的。(「虹外虹」『蟬』p49)
文学入門の授業なんかで学生に伝えたいことって、つまりこういうことだと思う。こういう瞬間のために、文学ってあるんだよね、と。
小説の中の「彼」は、その後、河の中で泳ぐのだが、溺れて死にかけてしまう。死にかける彼は、愛読書のヘミングウェイ『老人と海』のなかのサンチャゴのようだ。死とは無縁のような若い彼を、「死の匂い」が一気に取り巻いていく。この作品が書かれた1969年といえば、林懐民はまだ22歳。漠然とした「死の匂い」に取りつかれるのは、その若さゆえなのだろうか。死にかけてもう一度蘇った自分にとって、あまりにも変化のない世の中に対する無意味な怒りは、滑稽だが分からないでもない。19年前に父が亡くなった翌朝、その朝の光はまるでそれまでと違って見えた。まるで世界が一晩で色を変えたみたいに、僕の体にしみこんできた。でも、祖母が用意してくれたおむすびを、昨日の朝のように食べているみなを見て、「無意味な怒り」が胸を襲ったことを思い出す。日常というのは、こんなにも堅固で、しかもやるせないものなのだ。
この夏にまた台北を訪れたら、こんどは天気のよい午後に碧潭でボートを漕いでみよう。
●林懐民『蟬』、印刻出版、2002年
(写真:台北碧潭吊橋)
環演劇という視点 [literature]
ゆうべは台湾の提携大学からはじめて2週間のショートタームプログラムに参加する学生たちを招いて、市内のお好み焼き屋さんでパーティー。なぜか関西風だが、自分で焼くスタイルだから、台湾の若者も楽しそうだった。その後はひとりではぐれて、ちょこっと流川で呑む。キープの鏡月が無くなったので追加して、結局「ちょこっと」ではすなまくなった… けさはちょっと頭痛気味。
さて先月末の大阪での研究会で、近年の京劇研究の水準が高まり、対象も広がっていることを実感させられたが、とりわけ目を引くのが、“環演劇(大戯劇)”という視点である。演劇を審美的にとらえようとする研究ではなく、演劇を取り巻く環境を見ていこう、という立場だ。
それで、買ったままで読まずにいた幺書儀『晩清戯曲的変革』(人民出版社)をようやく読み始めたが、まさしくこの研究も“環演劇”という視点が貫かれた興味深いものであった。清代のロイヤルシアターの劇団制度の変革、北京南城の“堂子”、観劇指南と広告など、その対象は多岐にわたる。
そして今日、台湾の京劇研究者の友人から新著を恵贈していただいた。申報の伝統劇広告からみる上海京劇の発展、というタイトル。彼女は僕より若いのに、大部の研究書を上梓するのはこれで二冊目。そのエネルギーには敬服させられるし、刺激になる。この本も、上海の新聞、『申報』広告から、京劇を取り巻くさまざまな状況を研究している点で同じ視点をもっている。
読む本がまた増えて大変だけど、ますます面白くなってきたことは確かみたい。
さて先月末の大阪での研究会で、近年の京劇研究の水準が高まり、対象も広がっていることを実感させられたが、とりわけ目を引くのが、“環演劇(大戯劇)”という視点である。演劇を審美的にとらえようとする研究ではなく、演劇を取り巻く環境を見ていこう、という立場だ。
それで、買ったままで読まずにいた幺書儀『晩清戯曲的変革』(人民出版社)をようやく読み始めたが、まさしくこの研究も“環演劇”という視点が貫かれた興味深いものであった。清代のロイヤルシアターの劇団制度の変革、北京南城の“堂子”、観劇指南と広告など、その対象は多岐にわたる。
そして今日、台湾の京劇研究者の友人から新著を恵贈していただいた。申報の伝統劇広告からみる上海京劇の発展、というタイトル。彼女は僕より若いのに、大部の研究書を上梓するのはこれで二冊目。そのエネルギーには敬服させられるし、刺激になる。この本も、上海の新聞、『申報』広告から、京劇を取り巻くさまざまな状況を研究している点で同じ視点をもっている。
読む本がまた増えて大変だけど、ますます面白くなってきたことは確かみたい。
泣いた… [literature]
新型インフルエンザの影響で関大も休校となり、今週土曜日の図書館再訪は不可能となった。
残念だが仕方がない。来週になんとか時間を作ることにしよう。
MUJIの「あえるだけのパスタソース からすみ」はゆうべ試してみた。アンチョビとガーリックの香りも相俟っていい感じに仕上がった。最近お気に入りの水菜サラダと一緒においしく食べました。
今日は2コマ授業をやって、研究発表の準備を始める前に、ベルンハルト‐シュリンクの『朗読者』を読了。
15歳の少年とずっと年齢の離れた年上の女性との間の可愛らしくもありせつなくもある描写には読みながら笑ってしまうほど。おかしくて笑うのではなく、じんわりと胸の奥が熱くなるような幸せな感じにほほ笑んでしまう、という方が正確かな。それが留保なしにまっすぐで、不器用で、かっこ悪くて、可愛らしくあればあるほど、重苦しい後半の描写と響き合い、別の意味でまた胸が熱くなる…
好きだな、と思うのはこういう可愛らしい場面。
そして小説の終盤、あるポイントで涙があふれてきてしまった。小説を読んで泣くのは久しぶりのこと。
もともと涙もろいので僕の涙はあまり価値がないけどね(笑)
この作品は映画(『愛を読むひと』)にもなり、ケイト・ウィンスレットがアカデミーの最優秀主演女優賞も受賞している。6月には日本でも公開されるそう。小説を読んでいて思ったけれど、ケイトはこの主人公の年上女性にぴったりのイメージ。さて、じっさいのところはどんなものか楽しみ、楽しみ。むろん正直にいえば、15歳の少年を演じたデヴィッド・クロスのほうが気になってしかたがないんだけど…
ああ、それにしても、小説っていいですね。
残念だが仕方がない。来週になんとか時間を作ることにしよう。
MUJIの「あえるだけのパスタソース からすみ」はゆうべ試してみた。アンチョビとガーリックの香りも相俟っていい感じに仕上がった。最近お気に入りの水菜サラダと一緒においしく食べました。
今日は2コマ授業をやって、研究発表の準備を始める前に、ベルンハルト‐シュリンクの『朗読者』を読了。
15歳の少年とずっと年齢の離れた年上の女性との間の可愛らしくもありせつなくもある描写には読みながら笑ってしまうほど。おかしくて笑うのではなく、じんわりと胸の奥が熱くなるような幸せな感じにほほ笑んでしまう、という方が正確かな。それが留保なしにまっすぐで、不器用で、かっこ悪くて、可愛らしくあればあるほど、重苦しい後半の描写と響き合い、別の意味でまた胸が熱くなる…
好きだな、と思うのはこういう可愛らしい場面。
ぼくたちの愛し方も前とは変わった。長いことぼくは彼女のリードに任せ、ぼくの体を彼女のほしいままにさせていた。それからぼくは、彼女の体をほしいままにすることを覚えた。でも、ぼくたちの旅行中、そしてそれ以降は、互いに相手をただ好きなように利用する愛し方ではなくなった。/ぼくがあの当時書いた詩がある。詩としては大したものではない。当時ぼくはリルケやベンの大ファンで、この詩を見ても、ぼくが両詩人をいっぺんに模倣しようとしていたことがわかる。ただ同時に、当時のぼくたちがどんなに親密だったか、ということもこの詩から読みとれるのだ。ここに、その詩を記そう。/ぼくたちが互いに開きあうとき/ 君がぼくにぼくが君に/ぼくたちが沈み込むとき/君がぼくの中にぼくが君の中に/ぼくたちが消え去るとき/君がぼくの中でぼくがきみの中で/そうすると/ぼくがぼくになり/君が君になる (p70‐71 ボールド体は引用者)
そして小説の終盤、あるポイントで涙があふれてきてしまった。小説を読んで泣くのは久しぶりのこと。
もともと涙もろいので僕の涙はあまり価値がないけどね(笑)
この作品は映画(『愛を読むひと』)にもなり、ケイト・ウィンスレットがアカデミーの最優秀主演女優賞も受賞している。6月には日本でも公開されるそう。小説を読んでいて思ったけれど、ケイトはこの主人公の年上女性にぴったりのイメージ。さて、じっさいのところはどんなものか楽しみ、楽しみ。むろん正直にいえば、15歳の少年を演じたデヴィッド・クロスのほうが気になってしかたがないんだけど…
ああ、それにしても、小説っていいですね。
好きになってはいけない… [literature]
「曖昧」な自分の欲望が差し向けられるその相手が、その「曖昧」さを受け止めてくれるだけでなく、感応してくれたなら… けれどもそういう幻想は往々にして打ち砕かれる。僕たちには好きになってはいけない人が多すぎる…
呉継文の小説『天河撩乱』の登場人物、時澄は、大学生のとき、音楽学部の嗣興(「四星」と音通するところから「上将」というあだ名である)と親密になる。時澄にとってその親密さとは、越えてはいけない一線へと彼をいざなう誘惑そのものだ。
時澄の心の動きは可愛さと切なさの入り混じるものだが、自分の感覚とどうしても重なってしかたがない。ノンケを好きになっても、傷つくだけなのにね。でもたいていそういうノンケの親友は、誤解してしまうほど優しいものなのだ。ああ、罪作りな友よ…
それにしてもせつないですね…
呉継文の小説『天河撩乱』の登場人物、時澄は、大学生のとき、音楽学部の嗣興(「四星」と音通するところから「上将」というあだ名である)と親密になる。時澄にとってその親密さとは、越えてはいけない一線へと彼をいざなう誘惑そのものだ。
時澄還是不太能確定上將真的是對他一點興趣都沒有,因而裝傻,或僅僅是遲疑、害怕;時澄最後總是心頭蒙著一層陰影惘惘的睡去。可是一覺醒來,上將對他仍是親得不得了,於是讓時澄又燃起微弱的希望之火,然後再下一次同樣的場合中死滅。 有一次山楂到山上找時澄,話談得晚了,外面又下著雨,決定住一宿再回去。時澄樂在心裡,他趕快把房子讓給山楂,然後去找上將,深呼吸一口氣,說:「我有一個朋友要睡我那裡,能不能跟你擠一下?」 上將遲疑了幾秒鐘,説道:「好啊。」時澄劇烈的心跳已經要將他的胸腔撞痛了。(p209)
時澄の心の動きは可愛さと切なさの入り混じるものだが、自分の感覚とどうしても重なってしかたがない。ノンケを好きになっても、傷つくだけなのにね。でもたいていそういうノンケの親友は、誤解してしまうほど優しいものなのだ。ああ、罪作りな友よ…
それにしてもせつないですね…